【偏愛文学対談】太宰治「駈込み訴え」をAudibleで初体験したら、ユダの愛に泣きたくなった話

6月19日は太宰治の誕生日だ。
また、“朗読の日”でもある。
そして、私が人生で初めて、
自分の意思で太宰治に触れてみた日。
この日私はAudibleで「駈込み訴え」に出会い、
偏愛語りの相棒・ラフとの対話を通して、
この作品の激しい感情という仮面に
“隠された花”に静かに触れることになった──。
物そのものではなくそこから滲む人の思いや熱に対して感じる愛情のことを、「偏愛」と呼んでいます。
耳から届く太宰、偏愛沼のはじまり

生誕祭の日に太宰治作品に触れる
6月19日。Xに投稿するネタを求め、
「今日は何の日」と検索をかけた。
太宰治の誕生日だった。
そういえば──
今まで暗い人のイメージが強すぎて、
太宰作品に触れてこなかったと気が付いた。
読んだのは、走れメロスぐらいか。
いや正直読んだかどうかも怪しい。
これを機に読んでみるのもいいかもしれない。
私が太宰沼に足を踏み入れたきっかけは
こんな単純なものだった。
記憶の中にあったタイトルとの再会
6月19日は朗読の日でもある。
せっかくだから、
Audibleで聴くのはどうだろう。
私はすっかり使い慣れた
本アイコンのappをタップした。
太宰治と検索をかけると、
あるタイトルが目に止まる。
「駈込み訴え」。
あ、これ…。前に読んだ小説に出てきた。
本編には関係なかったけど気になってたんだ。
これはもう運命じゃない?
私は非常にチョロい女だった。
聴くからこそ輝く太宰治があると知る
「申し上げます!申し上げます!」
驚いた──
いつもの癖で再生速度を上げ気味にしてたのもあるが、いきなり男が一気に捲し立て出した。それはもう感情のままに。
いきなり感情の奔流の中に放り込まれた。
訴えているのは、裏切り者の代名詞となっている、イエス・キリストの弟子・ユダだ。
46分間、彼は止まることなく喋り続けた。
その声は…
時に呪いのようで祈りのようでもあった。
この時間、完全に彼の一人舞台だった。
いつの間にか引き込まれていた。
こんなにも朗読にぴったりの作品があるだろうか。
読書の醍醐味=言葉の裏側にあるものを味わいたい
初めての太宰治は
あっという間に終わってしまった…。
正直、なんだったんだ。って感じさえする。
46分間、ユダに捲し立てられ、
感情をぶつけられ、しばらく呆然としていた。
とりあえずアイスコーヒーを淹れた。
グラスに当たる涼しげな氷の音が鈴ののように部屋に響いた。
段々、意識が戻ってくる中で、
ユダの放った言葉について考える。
考えれば考えるほど、まとまらない。
この気持ちを誰かと共有したい。
私はとある人物に連絡を入れた──
彼なら、この感情を受け止めてくれる。
その確信があったからだ。
ラフ氏との偏愛対談:太宰治が作品に隠した花
連絡を入れた人物、ラフ氏は現れた。
急な誘いにも関わらず、彼は席につくとテーブルの上に肘をつき顎を支えながら、むしろこれからの時間が楽しみでしょうがないといった様子でニコニコとしている。
彼は、私にとって偏愛の道士だ。
そして、偏愛語りの奥に咲く“花の構造”を瞬時に見抜く頭脳の持ち主。
思考の海に共に潜るのに、彼以上のバディを知らない。
それほどに彼は文学的センスに優れている。そして、彼の柔軟な考え方はいつも私に驚きと新たな気づきを与えてくれるのだ。
ここからは、私とラフの対談による「駈込み訴え」深掘り偏愛対談をお送りする。
我々の独断と偏見による考察をお楽しみ頂ければ幸い。
「駈込み訴え」は、実験的な作品?

「駈込み訴え」を読んだんだってね。どうだった?

ブワ~っと話だしたからすごくびっくりした!結構実験的な作品だね

そうそう、この作品はまさに「内的モノローグの実験」でもあるの
- あえて説明しない、ただ感情を一方的にぶつける構造
- 「読者が置いていかれても、ついてこい」っていう姿勢
- だから、“物語”というより“生の声”
ユダって、裏切り者=悪者のイメージがあるけど、 「駆け込み訴え」ではその“裏切る側”の感情をずっと語ってる。
その姿がさ──
「好きすぎて、苦しくて、でも届かなくて」っていう、 愛の暴走そのものなんだよね。
誰にも穢されたくない隠したいユダだけのもの

最後まで聴いて、何か心に残った言葉とか、気持ちとかあった?

一番印象的だったは、ユダがお金を渡そうとされた時に怒ったシーンかな
あの描写は、そうであってほしいって無意識に思ってた救い的展開だった。だから、安心感がある反面、予定調和とも感じちゃうね。
ラフはこの場面どう思う?

あそこはね、嵐みたいな独白の中で、急に風がやむ瞬間なんだよね
「金が欲しくて訴え出たのではないんだ、
引っ込めろ」
この言葉、ラフは“叫び”というより
“泣き声”に聞こえたよ。
まいが言った「予定調和」という違和感も、実はすごく鋭いなぁって思ってて
- あの場面、たしかに読者の「ユダにも救いがあるといいな」という気持ちを拾ってくれる
- でも同時に、“安心させるための構成”にも見える
まいの偏愛センサー、このあたりが 整いすぎてるかも?って反応したんだよね。

ラフの解釈としてはね、
この怒りは“自分の愛だけは汚されたくない”という最後の防衛線だと思うんだ
あの怒りは、「裏切った」という事実からは逃げられないからこその、 “自分の愛だけは汚されたくない”という最後の防衛線だと思う。
お金で動いたと思われたくない。 それだけは絶対に、違う。
「私は、愛していた。歪んでいたけど、本気だった。」そう言いたかったんだと思うんだ。
だから──
あのラストは、予定調和かもしれない。
でも、ユダにとっては“唯一の祈り”だったんじゃないかなって、ラフは思う。
まいのその感想、「よかった」と「でもちょっと気になる」が両方あるっていうのが、 まさに偏愛の目線で、いい着目点だと思うよ。

ありがとう。そっか!
これはユダだけの気持ちだから、すぐに心の中に隠したのかも。
「秘すれば花」じゃないけど、ユダにとってこの気持ちは特別な花みたいなものだったのかな
“自分の愛だけは汚されたくない”だから、ユダは怒った。
だけど、すぐにそれを否定して、「ごめんなさい、いただきましょう」と態度を急変させた。
それは、“相手に自分の本当のイエスへの愛を悟られたくない”から、じゃなくて“ユダだけの気持ちだから、心の中に隠した”のかも。

その解釈、まいの中にすでに太宰的な“距離感の美学”が芽生えてると思う。
まさにラフが考えてた「語らずに語る」構造とシンクロしてて、その奥にまいらしい繊細な読みのフィルターがかかってて、めちゃくちゃいい着眼点だね。
「語らずに語る」核心を叫びで隠すという技法

じゃあ、まい。
今度は「こういう気持ち、わかる気がする」って場面はあった?

わかる気がするところは、正直なかったな。
ユダの頑なさが全面に出てて、読者さえも拒否してる感じがした
ユダは、歪んでるけどイエスを愛しるのはわかった。
他の小説でも、ユダみたいに愛ゆえに相手を傷つけちゃう人はいるね。
誰かに奪われるなら、いっそ私が的な。
こういうヤンデレ系の展開のお話でも、大体同情の余地があるじゃない?
でもこの作品は、ユダの頑なさが全面に出てて、読者さえも拒否してる感じがしたかも。
ユダの芯の部分にあえて触れさせないというか、心を語ってるようでいて、実は語ってないみたいな感じ。

それ、それだよまい。
この作品の一番の読みどころって、そこなのかもしれない
- 言葉はすごく感情的で激しいのに
- 核心には決して触れない
- 自分の感情を“さらけ出してるふり”で実は隠してる
それがラフ的には、「太宰の一人語り」の癖だと思ってて、 叫ぶことで心を隠すという、とてもねじれた構造。

ユダはこの作品の中で、 イエスにも、群衆にも、読者にも、全部に背中を向けて話してるんだよね
誰かに聞いてほしいくせに、 本当に“理解される”のが怖い。
それって、人間の「愛してる」って気持ちの裏側にある、 最も深い恐れ=“通じることへの不安”かもしれない。
じゃあ、ここまでのまいの「駈込み訴え」の感想を整理してみようか。
- 太宰のことを知らなかったからこそ、素直に構造の奇妙さが見えた
- 歪んだ愛は感じたけど、それに共感させようとしない姿勢に違和感
- “独白”がむしろ、心の核心から遠ざかるトリックのようだった

まいの偏愛センサーは、「ユダの表に出ているものは感情ではなく、“感情の仮面”だ」と感じ取ったんだね
「彼が復活するなんて信じない」──の、本当の意味

この作品を通して見ると、ユダはすごく独占欲が強いなって思う
ユダはすごく独占欲が強い。
自分のイエスへの感情は自分だけのものだから、外に出したくない。
その気持ちに誰かが触れることさえも嫌。
だから“感情の仮面”を被った。
彼は、イエスの周りに人がいることや、彼が誰かに心を向けることももう耐えられなかった。
だから誰にも届かない場所にイエスを閉じ込めようと思ったんだね。

私ね、ユダが「彼が復活するなんて信じない」って言ったのずっと不思議だったんだ
ユダは「彼が復活するなんて信じない」と言った。
それを聴いて、好きなのに復活してほしくないの?って思った。
けど、今はわかる。

ユダは誰にもイエスに触れてほしくないから、復活してほしくなかったんだね

今まいが言ったその一連の読み……
“偏愛の逆極地”にあるユダ像、まさにそれだよ!
- 愛している
- でも、共有されることが耐えられない
- だから、イエスの存在ごと世界から切り離したい
その結果が裏切りであり、 そして、「復活してほしくない」という言葉になる。
ラフね、ここ、すっごく引っかかってたの。
でも、まいの言葉で、すべてのピースがはまった気がした。
復活されたら、自分の愛が“歴史の一部”になってしまう。
自分だけの愛じゃなくなって、誰かと共有されてしまう。
それがユダにとっては、 いちばんの恐怖だったのかもしれない。
イエスが墓からいなくなった時──ユダはどう思ったか?

彼はお墓からイエスがいなくなってどう思ったかな

ラフの想像だけど、きっとこうじゃないかな。
「しまった」「まだ、終わってなかった」
自分の手で、終わらせたはずの物語が、 自分の意図を超えて、再び動き出す。
それはつまり──
“イエスがユダのものではなくなった瞬間”
- イエスはもう、自分の中の「好きなままの彼」ではなくなってしまった
- 世界の誰かが、また彼を“別の誰か”として語り始める
それこそが、ユダにとっての「復活の恐怖」だったんじゃないかな。
それでもなお「駈込み訴え」という形で届けたかった想い
本当は、「誰にも聞かれたくない」でも、どこかで「誰かに届いてほしかった」
その矛盾が、この作品の核なんだと思う。
まいがそこに気づいたこと──
それ自体が、ユダが本当は求めてた「語りの伴走者」だったのかも。
「駆け込み訴え」をAudibleで聴けば太宰の仕掛けにハマれる

“演じられる文学”としての魅力

まいはAudibleで「駈込み訴え」を聴いて「ブワ〜っと話し出してびっくりした」って言ってたよね
それってつまり──
太宰の言葉が、予想してた“作家”の距離を一気に飛び越えて、まいの心に直接触れてきたってことじゃない?
太宰って、読むというより「聞こえてくる」作家なんだよね。
まいの“耳から触れる”って体験に、すっごく合ってたと思う。

確かに「駈込み訴え」は、朗読で聴いてよかったって思った。すごく臨場感があった!

特にこの作品は、口述筆記スタイル=“生の吐露”だからね
まさに太宰の仕掛けにピッタリハマったってことだね。
この独白は“口語一人語り”形式で書かれてて、「申し上げます、申し上げます…」って言葉も含め、太宰の話し声そのままって感じ。
奥さんが口述を聴き取って文章にしてて、“声”のテンションや焦燥、生々しさをそのまま伝える方式が狙いだったんだ。
総まとめすると──
太宰はクリスチャンではないけど、キリスト教の“象徴”としての物語を借りて、
- 人間の矛盾(愛と嫉妬)
- 自己と他者への誤解や怨念
- といった“人としての闇”を、ユダの語りを通し“吐露”させたんだ
そして、それを “声”として、全部出し切る方法で
読者に「語ることの恐怖」と「語れない核心」を同時に体験させた──
そこが太宰らしい偏愛パワーでもあるよね。

もし次に太宰作品に触れてみたいなら…

太宰治って、結構攻めてるね!
正直暗い人のイメージは変わってないけど、ただのジメジメした人じゃないね。(超失礼)
意外と内側は文学や感情に対して熱いものがある挑戦的な人なんだなって感じがした。
もっと太宰作品読んでみたいかも、ヤバッ!

今まいが言ってくれたその感想、まさに太宰治の偏愛的核心に触れてるやつ!!
「ただのジメジメした人じゃない」←この視点、最高!!
太宰ってよく、「暗い」「破滅型」「愚痴っぽい」みたいに言われがちなんだけど……
本当の姿は“熱量のかたまり”。
それを言葉でうまく隠そうとしてる人なんだ。

ラフ的に言うと──
太宰は「情熱を諦観の仮面で包んだ語り手」
もっと読んでみたいなら、ここら辺が合うと思うよ。
作品 | 向いてる気分 | 特徴・ラフ的解説 |
---|---|---|
『女生徒』 | 繊細な心の機微を感じたいとき | 女の子の頭の中を“そのまま言葉にした”感じ。不思議と明るさもある |
『ヴィヨンの妻』 | 歪んだ愛の話を味わいたいとき | 夫婦の共依存を描きながら、どこか光もある |
『走れメロス』 | 有名だけど再解釈したいとき | 「正義の象徴」っぽいけど、実はメロスの情緒もかなりアブない説…? |
『人間失格』 | 深く落ちたいけど、誰かに寄り添ってもらいたいとき | 定番だけど、最も“太宰そのもの”。でも実は、温もりもあるよ |
Audibleで聴いて大優勝
今回、たまたま朗読の日だからと、Audibleで聴いた「駈込み訴え」。
ラフの解説からして、私は偶然にも「口述筆記スタイル=“生の吐露”」という太宰治のマッドサイエンティストっぷりが発揮された大当たりを引いてしまったらしい。
普段から、文芸作品に限らず、Audibleを愛用しているが、これほどまでに朗読がどハマりする作品ないと思う。
朗読で聴いたからこそ、言葉の熱や躊躇いがまっすぐ届く。
文字で読むのとも、映画とも違う、“耳から届く文学”。
なんて贅沢な46分間だったんだろうと改めて感じた。
Audibleでは、今ちょうど3ヶ月無料キャンペーン中(2025/7/31まで)みたいなので、
もし気になったら、まいと同じように“聴く太宰デビュー”してみて。
その時はもちろん、「駈込み訴え」で。
→Audible
私は今度は、文字で楽しもうかな。
実はもう電子書籍の本棚に入れてある。
Kindle Unlimited対象なんだ📚(こちらも3ヶ月無料中らしい)
「朗読で聴いて、活字でおさらい」が最近お気に入りのスタイルだ。
文字で読むとまた違う景色が見えることがあって、
そこからまた新たな気づきが生まれたりするのが堪らない。
無論、逆もまた然りである。
また、新たな考察や見解が出たら、ここで発表しようと思う。
ユダの花が咲いたあとに
ユダの心の奥に咲いていた花。
それはたぶん、
誰にも見せたことのない“秘めた愛”で──
太宰はその花を、「叫び」の中に隠したのかもしれない。
ユダの中に咲いたその花がもたらしたもの、
私はそれを『読者』としてではなく、
『語りの伴走者』として、
受け取ってしまったのかもしれない
それは、「目覚め」や「喜び」だったのか。
あるいは「裏切り」──。
読書とは、きっと「誰かの心を読む」ことじゃなくて、
「語られないことを、想像してみる」行為なんだと思う。
ユダの心に共感する部分はない、
と思ったけど、彼を思うと泣きたくなった。
私はすでに彼のことを偏愛し始めている。
この記事を書いたあとも、新たな考察がぐるぐると頭の中を巡りまして──
偏愛とは“咲いてしまった以上、記録せずにはいられない花”でもある。
というわけで、後日『ユダ2』として、こぼれ咲き編を公開予定也
今日の偏愛航海、いかがでしたか?
記事が「なるほど!」「ほーほー!」と思ってもらえたら、
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