【鳥取・境港旅にて】水木しげるロードに現れた優しき深淵―まい的ニーチェ偏愛的誤読(愛読)
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いている──
ニーチェのこの言葉を、私はまさか水木しげるロードで思い出すとは思わなかった。
けれどその深淵は、どこかぬくもりを湛えていた。
旅先の夜に出会った、優しさという名の“ほほえむ深淵”について。

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境港は19時にもなると、ひっそりとしている。
歪な形の街路樹が照明に照らされ、いかにも妖怪然としてその葉を揺らしていた。
私は友人と、水木しげるロードのライトアップを撮ろうと歩いていた。
向こうから柴犬を連れたおじさんがやってくる。地元の方だろう。
私たちがあっちの妖怪、こっちの妖怪とフラフラしているのに対し、
おじさんと犬は、ライトアップには目もくれず散歩していた。

ところが、ある場所でおじさんが立ち止まった。距離はおよそ1.5m。
ふと視線を向けると、おじさんは四角い街灯の光の中をじっと覗いていた。
程なくして、おじさんと犬は去っていった。
気になって私も近づく。柱の中には、目玉の親父が彫られていた。
真ん中の穴から光が漏れている。

覗いてみると、中には小さな鬼太郎。
目が合った。かわいくて、思わず声が漏れる。
ここに鬼太郎がいるよ、と
教えてくれていたのかもしれない。
控えめで、さりげなくて、
でもたしかに心に届く、そんな優しさ。

覗くと、向こうも覗いている。
ニーチェの深淵のようでいて、
それはあたたかく微笑んでいた。
優しい深淵は、おじさんそのものだった。
旅先でもらった優しさを、直接は返せなくても、
誰かに分けていくことで、きっと世界はつながっていく。
そう思いながら、私はもうしばらく、
光の中の深淵を眺めていた。
深淵に触れるとき、私がそこから何を受け取り、
どんな私に“再構築”されていくのか――
それを確かめるように。
深淵をのぞき込むとき、深淵もまたこちらをのぞき返している。
深淵に触れるとき、それは必ず誰かとの相互作用になる。
この旅もまた、そんな小さな波紋のひとつなのだと思う。
これが私の、いや“まい的”偏愛的誤読(愛読)だだ。
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