【運慶展2025】祈りの空間が起動した日──7躯が揃うと何が起きるのか

2025年、9月。
数百年ぶりにオリジナルメンバーがトーハクに集った。
鎌倉の時代、一世を風靡したあの名プロデューサーによる
祈りの空間が今ここに、蘇る――。
東京国立博物館で開催された「運慶展」。
展示されたのはたった「仏像7躯」。
しかし、この“少なさ”こそが今回の展覧会の本質だった。
運慶が作り上げた本来の祈りの空間を、
一夜限りの復活ライブのように再現する――
そんな前代未聞の試みだったのだ。
会いたかった!仏セブン@東京国立博物館
電車が、神セブンがかつて君臨した街を過ぎた。
もうすぐ目的の駅に着く。上野だ。
今、この街に、私の推しメンがいる。
改札を抜け、最適な出口を探す。
気持ちがせいて、早歩きになっていることに気がついた。
立ち止まってゆっくり息を吐く。ふぅ。
少し落ち着こう。

すっかり東京は秋だ。少し肌寒い。
東京文化会館横の銀杏並木は、
黄金の道となって私を導いてくれた。
まるで来迎のよう。
迦陵頻伽もいるだろうか。
私にはもう景色を楽しむ余裕はなかった。
今回目指すのは、東京国立博物館・本館で
開催中の特別展「運慶 祈りの空間―興福寺北円堂」。
東京における久しぶりの運慶展だ。
今回展示されるのは「仏像7躯」だけ。
”だけ”である。
SNSでも何度か、「たった7躯だけ」と嘆く声を目にした。
私も企画展が発表された当初、本館特別5室と聞いて、
正直、運慶にしては小規模だな、と思った。
だが、調べてみると「仏像7躯」は道理だと思えた。
むしろその潔さに、企画者立案者の偏愛を感じた程だ。
今回の仏像は全て奈良の興福寺から来ている。
阿修羅像でも有名なお寺だ。
そして、この運慶展は、興福寺の北円堂を、
トーハクこと東京国立博物館に持ってきたよ!という企画。
60年ぶりに上京した弥勒如来と、
脇侍の世親&無著、そして四天王の7躯だ。
北円堂は年に数日公開されている。
なので、通常の北円堂そのままであればレアというほどではない。
しかし、特別5室に広がっている景色は、それとは明らかに違っていた。
この数百年の間、誰も目にすることがなかった、
運慶が表現したかった祈りの空間だった。
最近の研究で分かったことがある。
北円堂には、7躯の仏像が安置されている。
弥勒如来、脇侍の世親と無著。四天王だ。
そのうち四天王は運慶作ではない。
そして、どうやら中金堂に安置されていた運慶作の四天王が
本来の北円堂における正しい組み合わせである可能性が高い。
今回は、その説に則った展示となっている。
つまり、解散した伝説のグループが、
2025年TOKYOにて、
数百年ぶりのオリジナルメンバーで
再結成ライブnowオンステージである。
そして、ここでさっきの問題の答え合わせだ。
想像してみてほしい。
復活ライブ当夜。
今か今かと待ち侘びてるのに、
後輩アイドルの前座に始まり、やっと本人登場かと思いきや、
親しいバンドやら親戚やらがやってきて合唱し始めたら――。
私だったら、こういうだろう。「ワンマンで頼む」
故に今回は「仏像7躯」”だけ”なのだ。
何も足さない。何も引かない。
オリジナルメンバーのワンマンLive。
ファンが求めていたものがここにはあった。
そして何より、単に7体そろったという話じゃない。
「本来の7躯」”だけ”が呼び戻す、静かで完璧な気配。
あの瞬間、私は初めて運慶の“空間そのものを構築する力”に気づいた。
齢XX歳にして味わう“無知の知”。ごっつぁんです。
劇的すぎビフォーアフター。空間の魔術師・運慶

展示会場は、本当に仏像が安置されているだけの空間だった。
北円堂を模しているので、配置も中央に、
弥勒如来、左右に世親と無著、それを守護するように
四方を固める四天王となっている。
会場に入ると、まず増長天が目に入る。
運慶らしい圧倒的力強さ。
その向こうにおわす脇侍と弥勒如来の静。
コントラストと調和の美がそこにあった。
運慶仏に知見があり、かつ現状の北円堂を知らない方は、
あまりの調和に、逆にこのすごさに気づかないかもしれない――。
現状の四天王は、技法からして違う。
それ以前に、作風が違いすぎた。
よく言えば静謐な感じだが、「はい、ポーズ」と言われて止まっているような感じ。
サイズも140cmに満たず、中央の『チーム悟り』に対して存在が弱い。
に、対して、今回の『運慶ズ四天王』は、
歴戦の騎士隊長的深み。感情が現れた表情。激しく翻る衣。
悪を抑え込む「外向きの動的な力」と
「護法神としての威嚇的なリアリティ」が見事に表現されている。
それに対する、中央の『チーム悟り』。
瞳をうるわせ前を見据える世親、
”色々乗り越えました”顔の無著、
そして“何事にも動じぬが?”フェイスな弥勒如来。
圧倒的な静がそこにはある。
激しい内省や思索、
そして人智を超えた悟りの境地に至る「人間的な苦悩」と
「精神的な力強さ」を表している。
つまり、『チーム悟り』と『運慶ズ四天王』が
静と動、内側と外側へのエネルギーが完璧な対比構造をなし、
空間全体で一つの大きな「祈りのドラマ」を形作っているのだ。
私は、今回のことで認識を改めさせられた。
運慶はただの仏師ではない。
“空間の魔術師”である、と。
また、この特別5室という空間は、
それを表現するのに最適な場所だった。
そして正しい北円堂を再現するのに、
「仏像7躯」以外の展示品があってはならないのだ。
照明シゴデキ職人がいる!世親を泣かす光
運慶による圧倒的世界観を堪能しつつ、まずは『運慶ズ四天王』から回遊していく。
中尊寺金色堂の持国天を拝んで以来、
四天王にも開眼してしまった私。
運慶の四天王もいいよ~!いいよ~!
近くから、遠くから。肉眼で、単眼鏡で。
あらゆる角度から堪能する。
お召し物の裾が翻るのも、なんて麗しき!
あとね!特に多聞天すごく楽しみにしてたの!ピャッ。
SNSで見た佐々木香輔さんが手掛けた写真が
マジよすぎた!
“高く掲げた宝塔を見上げる多聞天”を見下ろすアングル!
はっ!天才か!
これって、カメラマンはたまた
年末大掃除の坊主くらいしか拝むことができない角度では?
完全に被写体に対する愛!愛が生み出した一枚!
The 愛と書いて慈愛と読む!
見て!この視線!
これだけで、頭の中に物語が駆け巡るよね!
煩悩が爆散しました。南無三!
で、こちら現場。
――シクシクシク。泣きそう。
分かってたけど、会場では下から拝むしかない。
でもでも!
多聞天と同じ目線(でもない)で同じ方向見られるからいいよね!
などと情緒不安定に沸き散らかした。
そして、ソワソワしながら、『チーム悟り』へ。
はぁ、うっとり。久方ぶりの世親と無著でござる。
運慶の最高傑作。
私を仏の道へと誘った張本仏。推しメン。
やっぱりこういう企画展のいいところは、
あらゆる角度から拝めることと、照明だよね。
無著は正面からだと、目開いてる?って
感じなんだけど横から見たら、
スッと前を見据えておられて印象がまた全然違う。
どんなお顔?って聞かれたら答えることは簡単だけど。
なんだろうね、なんとなくその時の見る人の心の有り様によって
違うんじゃないかって思う。そんなお顔。
そして、世親よ。どしたどした?
めっちゃおめめがウルウルじゃないか。
慈悲がダダ漏れ!
無著に比べて、世親は目の潤いがアイドル級。
いや美少女戦士って感じかな。
涙が溢れそうになっても前を向くもん!みたいな。
そして、真ん中の弥勒如来は達観しまくってるから、
逆に光らない。静かで瞑想的。
スンって感じ。
今回の仏像群の中で、玉眼なのは世親と無著だけ。
つまり弥勒如来は彫眼。やっぱり運慶はすごい!
素材の使い分けで、こうも精神性を表現するとは。
こういう素材の使い分けや、動きのコントラストに気付けるのも、
オリジナルのオールキャスト配置だからと思う。
そして、今回の照明担当さん!bravo!拍手を送ります。

これは展示ではない。祈りの空間である
個々の仏像をたっぷり堪能したのち、私は改めて空間全体を見まわした。
『運慶ズ四天王』の動と『チーム悟り』の静。
それだけで世界観が出来上がってる。
ただただその美しい反調和がそこにはあった。
そして、弥勒如来が、こちらを見据えている。
何が見える?そう問われているような気がした――。
これは――。
これはもう「展示」じゃなくない?
仏との対話の場、すなわち祈りの空間そのものじゃないか。
そう確信した瞬間、そこは宇宙になった。
私はおそらく現状の北円堂では、この世界には辿り着けなかったと思う。
運慶が作り出した正しい7躯が、
正しい配置で揃ったからこそ感じられた世界だ。
「目にみえる世界に囚われず、心の奥底にある真実を目指せ」
「『運慶ズ四天王』のフォーメーションによって、祈りの構造が“露わになった”。
「静と動」、「内と外」のコントラストは、法相宗の世界観に通じる。
このフォーメーションで、運慶は「四天王の力を借りて煩悩を取り払い、静の心を目指しなさい。」(だからこその弥勒如来!)と教義を伝えていたのだ。
これは、おそらく気づける人にだけ立ち上がる世界。
祈りの空間は“物理的に存在する”ものではなく、
“認識によって成立する”ものだ。
今回のことで、そう気付かされた。
また、実際にここは祈りの空間としての
もうひとつの重要なファクターが備わっていた。
ここに安置されている仏像は全て仏様だ。
通常、博物館などに展示されたり、移動する際、仏像から仏様を一旦取り出す儀式「撥遣法要(はっけんほうよう)」を行う。その間、それらは精神的な意味で美術品である。
ところが、今回は会場入りしてから、また魂を戻している。
つまり今回の企画展は、“北円堂の復元”ではなく
展示空間そのものが“祈りの場”としての条件が揃っていた、ということだ。
運慶が作り出したのは、芸術品ではなかった。
仏像を用いた空間世界。祈りの場という装置。
それを復活させるのに、仏像に魂が入っているのは必然のことだろう。
ここにも法相宗の唯識思想があった。
「企画展」という世界観の顔をした真実(唯識的に祈りの場が蘇生した)を前に、
私は心の中でただ合掌した。
現地で見てなんぼ!あるべき場所で完成する世界
私は確信している。
きっと近い将来、今回の運慶展のオリジナルメンバーは完全復活を遂げるだろう。
そしてそれは、今回以上に完璧な「祈りの空間」となるはずだ。
これだけの空間世界を作り出せる運慶が、
安置される場所のことを考慮しなかった筈がないんだから。
北円堂は春と秋に特別開帳されている。
それ以外の季節でも建物自体が国宝で、
現存する八角円堂の中で最も美しいとされている建物は必見だ。
また今回、7躯として紹介したが、実は北円堂の仏像は本来9躯だ。
今回お留守番だった2躯は運慶の弟子による法華八部衆の中の「二天像」。
今後、北円堂を訪れる機会があれば、そちらも注目されたし。
『運慶ズ』復活ライブを終えて
今回の運慶展は、
単なる展示ではなく――
空間を支配するほどの復活ライブだった。
そして、
「仏像は個々で見るものではなく、配置された空間全体で初めて完全な意味を持つ」という、仏像彫刻の本質を改めて教えてくれる貴重な機会だったと思う。
特に、複数の仏像によって作られる世界観があることを知った。
今回の企画展が終われば、仏様たちは仏像の元を一旦離れ、東京の鬼門・上野に現れた祈りの場は幻と化す。まさに諸行無常。
思えば2025年、これが私の今年のアート鑑賞納めになりそうだ。
数百年の時を経て、彼が見せてくれた唯識思想の仏教世界がそこにはあった。
「私の世界は私の「心」が作り出している」
唯識思想はきっとこんな風にも解釈できるだろう。
『運慶ズ』また、いつか――。

帰りがけ、ライトアップされたトーハクを撮っていると、
おじいさんに声をかけられた。
写真を撮ってほしい、と。
スマホを受け取るとおじいさんは、建物の右側に寄った。
正面で撮りませんか?と声をかけかけて気がついた。
「運慶展」の幟と写りたいのだ。
2枚ほど撮影してスマホをお返しすると、
おじいさんは「撮りましょうか」と言ってくれた。
おじいさんの手は、単眼鏡で観察した無著の手によく似ていた。
その日、私の世界は暖かかった。
運慶が作った世界に触れ、手のひらにそっと残った
小さな“平和で清らかな真実”は、とても優しかった。

本日の偏愛品
時空旅人 別冊 運慶の世界 仏像と祈りの旅路
サクッと運慶展と運慶について学べる一冊。
Kindle Unlimited対象だから本を無料で読めた。行きの電車でもスマホのappで読み直して知識満タン!
【Amazon】→時空旅人 別冊 運慶の世界 仏像と祈りの旅路
【楽天】→時空旅人 別冊 運慶の世界 仏像と祈りの旅路

今日の偏愛航海、いかがでしたか?
記事が「なるほど!」「ほーほー!」と思ってもらえたら、
↓こちらから “ほーほー隊”の偏愛エール、ポチッとお願いします
“ほーほー隊”の偏愛エールとは?
当ブログを読んでくれてる方は誰でも”ほーほー隊員”。バナーを推すとブログ村のランキングUPに繋がります。まいが大喜びするボタンとなってます
