偏愛文化考察
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【偏愛映画レビュー】罪なき知性の果実──アラン・チューリングという寓話

まい(Maiko)
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戦争を終わらせ、多くの命を救った天才数学者アラン・チューリング。
その功績は長く封印され、彼の“存在”は罪として裁かれた。
このレビューは、映画『イミテーション・ゲーム』を通して語る、
愛と孤独、そして知性の果実にまつわる寓話である。

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第1章:私はこの映画を、戦争映画とは呼べなかった

戦後80年の今年、私はひとつの戦争映画を観ようと思った。

タイトルは『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』
ナチスが使っていた暗号「エニグマ」の解読をめぐる、実在の数学者アラン・チューリングの物語。

けれど観終わったあと、私はこの映画を「戦争映画」として語ることができなかった。

戦争の残虐さを描く作品はたくさんある。命を奪われる恐怖、極限状態の人間関係、爆音と銃声と炎の中で人が壊れていくさま。
でも、この映画にはそれがない。

代わりに映し出されるのは、銃声の代わりに沈黙が響く、日常のような作戦室。
声を荒げずとも心がぶつかり合う、チームの中の孤独。
そして、誰を救い、誰を見捨てるかという、感情も倫理も試される選択。

言葉少なな男と、静かに回転する機械。
そこには爆発も流血もないのに、確かに人が壊れていく音がした。

そして私はその静けさに、心を持っていかれてしまった。

これは戦争映画ではない。
けれど、戦争の真っ只中で最も人間らしさを奪われたひとりの男の、
「名もなき戦いの記録」だったのだと思う。

第2章:クリストファーという名の機械

機械に名前をつけるというのは、きっととても個人的な行為だ。

「クリストファー」と名づけられたチューリングマシンは、ただの装置ではなかった。 それは彼がかつて心を通わせ、言葉を交わし、秘密を共有した、あの人の“未来”だったのかもしれない。

学生時代、ふたりは暗号を通じてつながっていた。 声に出せない感情を、数式に、文字に、託していた。

そしていま、戦時中のイギリスで、彼はまた暗号に向き合っている。

けれどその傍らにいるのは、あの頃と同じ“クリストファー”── もう返事をしてくれない存在、でも唯一、対話を続けられる相手。

この機械を通じて彼は、かつて交わされなかった未来を、 自分の手で書き換えようとしていたのかもしれない。

そう考えると、「イミテーション・ゲーム」というタイトルが、 彼の人生そのものに重なって見えてくる。

彼にとって、それはただのテストではなかった。

人か機械か。 本物か、模倣か。 心があるのか、ないのか。

アラン・チューリングという人は、 自分自身に問い続けていたのかもしれない。

「私は人間なのか、それとも……誰かのイミテーションなのか」と。

第3章:救った者が裁かれる国

「人を好きになることは、罪なんだろうか。」

アラン・チューリングの人生には、ふたつの評価がある。
ひとつは、戦争を終わらせた“英雄”としての評価。
もうひとつは、同性愛者として国家から“犯罪者”にされた評価。

彼は、多くの命を救った。
けれどその手のひらで、その心で、人を愛したという理由で、
国家は彼を罰した。

裁かれたのは「行動」ではなく「存在」だった。

人を好きになる。そのただ一つの衝動が、
当時のイギリスでは「非合法」とされていた。
救いの手を差し伸べた男が、救いを与えられなかった社会。

チューリングの任務は極秘だった。
彼の功績を知る者はわずかで、
語ることさえ許されない沈黙の中に、彼はいた。

その孤独の中で、彼は問い続けたのだろう。

「私は人間なのか?」
「私が愛したことは、そんなにも間違いだったのか?」
「人の命を救っても、私は赦されないのか?」

その問いに、当時の社会はこう答えた。
「愛する相手が間違っている」
「お前の存在が、社会の秩序を乱す」

──それが、裁きだった。

神は“愛”を説くという。
けれど、なぜその愛の形によって、罪とされるのか。
神の名のもとに、どれだけの“愛”が否定されてきたのだろう。

「あなたたちの信じてる神は愛を説いてるのに、なぜ対象が同性だとダメなんだ?」
その問いは、今もなお、世界中で答えを待っている。

そして私は、この映画を観たあと、静かにこう思った。

本当に、アランが悪かったの?

悪かったのは、彼を罰した社会ではないのか。
英雄を犯罪者に変えた、あの時代の“正義”とは何だったのか。

「救った者が裁かれる国」
それは、ただ過去の話ではない。
今もなお、私たちが問われている構造なのかもしれない。

第4章:りんごを齧った天才の物語

「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」

これは、アラン・チューリングが亡くなる少し前、白雪姫の映画を観たあとに語ったという一節だ。
どこか童話のような、けれど、もう戻れない場所へ自ら向かおうとする詩のような言葉。

彼の死因は、青酸カリを塗ったリンゴを齧ったことによる自殺──とされている。
それは、科学者としての冷静さと、詩人のような感情とが交錯した最期の選択だったのかもしれない。

この話を知ったとき、私はふたつのイメージが重なった。
ひとつは、聖書に登場する「善悪の知識の木の実」。
もうひとつは、童話『白雪姫』に登場する「毒りんご」。

──どちらであっても、彼にとってそれは“希望”だったのかもしれない。

神が「愛の形」で人を裁くのなら、
彼は、自らその“楽園”を出ていったのかもしれない。
誰かが定めた善悪の基準ではなく、
自分自身の意志で、知恵を齧る道を選んだ。

そしてその“果実”は、呪いではなく祈りだった。
それは、“王子様”──かつて心を通わせたクリストファー──が
迎えに来てくれる“永遠なる眠り”への扉。

チューリングは、科学者であり、哲学者だった。
だからこそ彼は、あのリンゴに
知と孤独と愛と祈りのすべてを封じ込めたのだろう。

あの果実は、絶望の中で彼が見出した、最後のやさしい光だった。

第5章:語り継がれるための謝罪と恩赦

アラン・チューリングの偉業は、戦後すぐに語られることはなかった。
ナチスの暗号「エニグマ」を解読し、
第二次世界大戦を終結へと導いたその功績は、
政府の機密事項として、50年以上ものあいだ封印されていた。

彼の人生は、沈黙の中に閉じ込められていた。
名もなく、讃えられることもなく。
孤独と絶望のうちに、その命は静かに終わった。

そしてようやく、時代は彼を“英雄”と呼んだ。

2009年。
イギリス政府は公式に謝罪する。

2013年。
エリザベス女王は、彼に対して「恩赦」を与えた。

けれどそのとき、アラン・チューリングは、もうこの世界にはいなかった。

謝罪は、彼に届いたのだろうか。
恩赦は、彼の孤独を癒したのだろうか。

誰にも答えはわからない。

けれど──

私たちには、彼の物語を“語り継ぐ自由”がある。
彼が愛した人たちのことも、
彼が齧ったリンゴのことも、
忘れずに、語ることができる。

そして今。
私たちは、新たなリンゴを手にしている。

チューリングが生んだ知性の先に、
私たちはコンピューターを持ち、
AIを育て、
ダイバーシティを掲げ、
「愛する自由」について考え続けている。

それは、かつて彼が齧ったリンゴの“続き”なのかもしれない。

スティーブ・ジョブズは、「Appleのロゴはチューリングとは無関係だ」と語っている。

けれど、私は時々思う。

あの“ひとくち齧られたリンゴ”の中には、
今なお噛みしめている“知の重み”と、
忘れてはならない“名もなき孤独”が、静かに刻まれているのではないかと。

あなたは、あのリンゴに、どんな意味を見出しますか?

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密

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まいこ
旅と偏愛の変換装置です。 神話、仏像、ご当地スーパー。 すべてがちょっとエモく見える仕様。 考察の余地や誰かの愛があるものが好き。 非接触共鳴型偏愛家
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